« 己が自らを紹介する | Main | こいのぼりのなく頃に『FAた流し編』 »

宮﨑充登伝

宮﨑は名を充登(みちと)といい、和歌山県岩出町の人である。宮崎充登とも表記される。

智弁和歌山高が1996年センバツで準優勝した時、控え投手であり、1学年下の高塚投手(元近鉄)の陰に隠れて目立った活躍はなかった。このとき優勝を争った鹿児島実業のエースは下窪陽介である。宮﨑と同年に高校を卒業し、同年にプロ野球の世界へ入り、横浜ベイスターズの選手となった。
練習試合で南部の主砲・浜中と対戦し、ストレートを左翼スタンドに運ばれた。
チームメイトとして他に中谷仁(阪神-楽天)、喜多隆志(元千葉ロッテ)がいる。彼らは宮﨑の1つ下であり、1997年の夏の甲子園優勝メンバである。中谷以外の2人は引退した。

高校卒業後はホンダ鈴鹿に在籍した。社会人時代は名を知られ、シドニー五輪の代表候補として1999年の広島カープ春季キャンプに参加するなど、人物評価によって評判をたてられていたが、プロ球界からは声がかからず、志を得なかった。プロへの道を諦め、野球を辞めると決定していた(*1)。
その頃、元広島の吉本亮コーチの助言で右ひじを下げた投球フォームの改造を行い、球速とキレが増し、プロへの道が拓けた(*2)。
2006年、広島東洋カープは希望枠による獲得を打診し、宮﨑はこれに応じて入団を表明した。入団会見で話した。「やっとスタートラインに立てたということに感動してます」。同じ和歌山出身で同学年だった阪神の浜中選手との再戦を望んだ(*3)。入団時、彼は28歳であった。

武器はストレートとスライダーである。フォークは投げてはいたが、自信のない球であった。
2007年春季キャンプでは、先発起用の方針が伝えられた。ブラウン監督には、チーム投手陣屈指の球威を評価された。「無口でおとなしいが、腕の振りはうるさくて良い」。また「先発でやるならもう1つ自信のある球を」と縦の変化球であるフォークを会得するよう課題を与えられた。
2007年シーズンの春先には4月4日に初勝利を挙げたが、その後連続して登板に失敗し、二軍へと落とされた。再昇格を果たした後は、速球一辺倒だった投球スタイルからの脱皮を試みている。フォークと、スライダーとは逆の軌道を描くシュートという2つの変化球を磨き、9月29日には阪神戦で先発初白星を挙げ、先発ローテ候補に本格的に名乗りをあげた(*4)。

(*1)『中国新聞』にいう。宮﨑は勤務先の本田技研鈴鹿製作所付近(三重県鈴鹿市)に35年ローンを組み家を建てた。宮﨑は言った。「大きな会社で安定しているし、定年まで勤めることを決めていた」。
(*2)『迷スカウト』にいう。彼は、以前から速い投手であった。しかし、社会人10年目の今年、更に進化していることに驚かされる。常時148~MAX153キロ。東京ドームの厳しいスピードガン相手に、先発でこれだけの数字を叩き出せるアマチュア選手は、この人をおいて他にはいない。
(*3)臣(わたくし)志賀は考える。入団する際に挙げる選手は、人気のある選手がよい。ただ一流の選手名を挙げるのでは、記事としての価値がないので無視される。自己の経歴に絡めて、実績はそれほどではなくても名を知られた選手を挙げるのが賢明である。
(*4)『スポニチ広島』にいう。ブラウン監督は称賛した。「両サイドの制球がベターだった。彼は順調に力を付けてきた。来年も先発ローテーションに入れる存在で、競争してもらいたい」。9月15日の記事にもある。「登板が増えるに連れてレベルが上がってきた。オフに外国人を補強する予定で、先発争いは激しくなる。だが宮崎は争うことができると思う」

|

« 己が自らを紹介する | Main | こいのぼりのなく頃に『FAた流し編』 »

広島東洋カープ」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/26033/17384496

Listed below are links to weblogs that reference 宮﨑充登伝:

« 己が自らを紹介する | Main | こいのぼりのなく頃に『FAた流し編』 »