遅かりし、由良之助
「やあやあ、待ったかね」
これから昼食に行こう、という待ち合わせ場所に、右手を挙げながら先輩は現れた。リアルでこのような登場の仕方をする人間を、僕は他に知らない。
「遅いですよ。30分待ちました」
「四半刻程度でゴタゴタ言うのは、日本人の悪い癖だと私は思う」
「ここは日本ですし、時間を守るというのは美徳だと思われますが」
「まあ落ち着け。今更何を言っても、遅かりしゆらのすけ」
「は?」
聞き返す僕の表情を見て、先輩はやれやれと両腕を広げた。このような仕草をする人間を見たのも、FF7のクラウド以来である。
「知識のないやつじゃ。広く知られた慣用句だろう。他にはれっつらごんのすけなどが思い浮かぶ」
「か、慣用句? 誰なんですか、ゆらのすけって」
「知らない」
「知らないで使ってるんですか」
「知識とは元々そういうものだ。じゃあキミは電子レンジの原理を知って、弁当を温めているとでも言うつもりかね」
「それはそうですけど」
話が明後日の方向へそれていくのを見かねたのか、同僚の一人が「忠臣蔵」とつぶやいた。
「! おお、その通りだ。忠臣蔵にあったような気がする」
先輩は両手をパンと合わせて目を輝かせた。そういえば、このような仕草を見たのも、鋼の錬金術師が最後だったかもしれない。
「しかし、ゆらのすけなんていたかな」
「いなかったんですか?」
「いた?」
「すみません、自分、忠臣蔵って実は見たことないんですよ。一回も」
「なんたることか。よし、お前、調べて来るがよい」
「え、そんな。先輩が調べればいいじゃないですか。使ってるんだし」
くだらないことを押し付けあう自分たちを見かねたのか、またもや同僚が説明してくれた。なんでも「遅かりし、由良之助」とは歌舞伎の忠臣蔵に出てくるセリフであり、由良之助というのは大石内蔵助のことらしい(この名前はさすがに聞いたことがあった)。簡単に言うと、彼がなかなか現れないので誰かがそう叫んだそうである。
忠臣蔵を実名そのままで上演すると「御政道を批判した」とお上のお咎めを受けてしまうので、歌舞伎では登場人物の名前を少し変更していたらしい。
「なるほどー。詳しいですね。さすがです」僕は同僚を褒め称えた。
「ってことを、こいつに教えたのは私なのだがね」
「嘘だ!!」
とは言えない。それでは金属バットで殴り殺されてしまう。
僕には竜宮レナになる勇気はない。やっぱり、あいつはすごいやつだ。
「まあ、また分からないことがあれば私に聞きなさい」
そういう先輩に、僕はハイと曖昧な笑顔を返した。
春はまだかな。
空を見上げ、そっとため息をついた。
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